ZAMDAの年表だぴょ〜ん

『ZAMDA』クロニクル

ミニコミ誌とはいえ、雑誌をそれなりに続けていると色々なことがあるものです。というわけでここに本誌の創刊前夜から現在にいたるまでの歩みをまとめてみました。もちろん『ZAMDA』は今後も続けるつもりなので、この年表にはさらに新たな出来事がつけ加えられることでしょう。それにしても、初期のころの企画を思い出すにつけ、なんだか恥ずかしいなあ……。なお、この年表は2001年9月発行の本誌増刊「こちら中野区昭三公園前派出版」に掲載した「ZAMDA関連年表」を加筆修正したものです。(構成:『ZAMDA』編集長・近藤正高)

1999年

2月14日
『ZAMDA』大主筆・吉河悟史宅に早稲田大学落語研究会メンバー/OBである居島一平・肉十八・大岡越前とともに『ZAMDA』編集長・近藤正高も集結。当時吉河・居島を中心に開催されていた演芸会「鬼畜寄席」でミニコミを発行するという目的で、「今ハマッているもの」というテーマで座談会を行なう。結局「鬼畜寄席」のミニコミは日の目を見なかったが、この晩に『ZAMDA』は受胎したものと思われる。

2月27日
東京都下奥多摩は檜原村での目的不明の合宿に吉河と近藤が参加。民宿「大平」(もしくは「太平」……当の民宿でも表記が統一されていなかった)にて早大落研メンバーである居島・越前・法界坊らとともに、夜通し同会OBにして山形の怪人・真木修平にインタビューを行なう。いまにして思えば、これは『ZAMDA』にとって胎教のごときものだったと推定される。
[この時のインタビューをもとに近藤が個人的に作成した「真木修平年譜」は、のちに『ZAMDA』第9号特集「真木修平8 1/2時間インタビュー」の原型となる]

10月29日
諸事情から小笠原に島流しされていた吉河が都に生還。帰京直後、日本シリーズでの中日のあまりの惨敗振りに落胆していた近藤と電話回線上にて、ミニコミ誌をつくろうと意気投合する。かつて吉河が早大落研で行なっていた「ザ・無駄」という行動から『ZAMDA』と誌名がつけられる。本誌の受胎告知の瞬間だった。
[ちなみにこの時のBGMは椎名林檎の『本能』]

11月25日
『ZAMDA』創刊準備号刊行、中野のタコシェや新宿の模索舎での販売を始める。この3年前、吉河・居島が発行しようとしていたミニコミ『珍獣』掲載予定のチベット太郎インタビューが、ここでようやく日の目を見る。
[同日はちょうど30回目の憂国忌であり、かの昭和の小説家を偲んで吉河と近藤、それぞれ「腹切って秋風寒し憂国忌」「天高く首が飛ぶ飛ぶ憂国忌」と詠む。掻っ捌いた腹から、受胎より十月十日を迎える間もなく1か月早く未熟児で生まれたのが『ZAMDA』であったか]

12月1日
近藤・吉河、東京藝術大学美術館《所蔵名品展》へ新巻鮭を持ち込む。いわゆる《東京藝術大学"鮭"持ち込み事件》。本誌初のパフォーマンス。

12月28日
『ZAMDA』創刊号刊行。本格的に「生まれてすみません」。
[このころの吉河と近藤は、椎名林檎や当時ケーブルテレビでリバイバル放映されていたテレビドラマ版『ハレンチ学園』(特にドラマのナビゲーターとして登場する阿部進に注目)の話で盛り上がっていた]

この年後半
おそらくこのころより、自身の研究のため吉河がSPレコードを集め始める。

2000年

1月22日
吉河と近藤、樋口一葉の墓前(築地本願寺別院和田堀廟所)へ彼女が表紙となった本誌創刊号を手向ける。
[この時の写真は『ZAMDA』第2号表3に掲載]

2月24日
『ZAMDA』第2号刊行。発行所として奥付に初めて「ZAMDA JAPAN」と記載。

2月X日
吉河と近藤、渋谷の青山ブックセンター本店での赤瀬川原平と山下裕二・南伸坊のトーク・ライブ《日本美術応援団》に赴く。開催終了後を狙って赤瀬川氏に、近藤が模写した二千円札を表紙に掲載した本誌第2号を渡そうとするも向こう側に時間の余裕なく果たせず。無念。
[実は吉河も近藤も以前より赤瀬川原平のファンで、この前年に開催された赤瀬川氏出演の紀伊国屋ホールでのイベント《南伸坊研究序説》(だったけ?)でも、会場で偶然にも『ZAMDA』創刊前夜の二人が出くわしている]

3月18日
『ZAMDA』第3号としてイベント《紅花かをりの地獄畫報》を中野ハルコロホールにて敢行。ゲストとしてチベット太郎が出演。
[この時のレポートは『ZAMDA』第4号に掲載]

4月28日
『ZAMDA』第4号刊行。

4月29日
《天皇陛下白寿記念・昭和七十五年度御前歌留多大会》を近藤扮する裕仁天皇ご臨席のもと、中野ハルコロホールにて挙行。
[この時のレポートは『ZAMDA』第5号に掲載]

6月17日
本誌初の路上パフォーマンス、2000年安保記念《大延長》を行なう。その内容は近藤と吉河が、赤坂のアメリカ大使館から国会議事堂を経由して皇居前広場までの道程を巻尺で計測するというもの。その後、前日の香淳皇后死去により設けられた坂下門の記帳所を覗き、さらには後楽園ホールにて『笑点』公開録画を観覧。
[この時のレポートは『ZAMDA』第5号に掲載]

7月9日
近藤が板橋区立美術館の所蔵作品展《作品を見る》会場にて、ボランティア「街角キュレーター」として各作品を入場者に解説。

8月X日
ホームページ『電気ZAMDA』開設。初代管理人は吉河。

8月13日
『ZAMDA』第5号刊行、「ZAMDA JAPAN」として初参加した東京ビッグサイト(有明)での第58回コミックマーケットにて発売。

8月19日
吉河と近藤、豊島公会堂で開催されたイベント《シネマ秘宝館in豊島公会堂》に赴き、バカ映画の活況ぶりを目の当たりにして衝撃を受ける。
[この時の衝撃がのちに『ZAMDA』第10号特集「日本・バカ・映画」と第11号で予定されている同特集第2弾に結実することになる。そういえば豊島公会堂でのイベント直後、吉河と近藤が『ZAMDA』をいつも印刷している都内某所のコピーショップに立ち寄った折、偶然にもシネマ秘宝館の斎藤浩一館長を見かけ驚いた、なんてこともあった]

10月1日
シドニー・オリンピックの男子マラソンの時間と合わせて、近藤が東京オリンピックのマラソン・コース(国立競技場〜調布市・飛田給)の約20キロを走る。題して《高橋尚子シドニー・オリンピック女子マラソン優勝記念 ZAMDA杯 たった一人のハーフ・マラソン大会 in TOKYO 2000》(コードネームは《走れ!モンゴいか》)。吉河はカメラマンとして同行。飛田給からは京王線で武蔵野陵へ赴く。
[この時のレポートは『ZAMDA』第6号に掲載。『ZAMDA』での近藤による現代美術志向の企画はこれをもって一旦休止することに]

11月1日
この日発売の『中洲通信』12月号「三島由紀夫大特集」に近藤の文章「三島由紀夫とレコード」掲載。
[これは、『中洲通信』の編集部の方が三島特集でのネタ探しの折、『ZAMDA』第5号掲載の記事(三島由紀夫と楯の会のシングル「起て!紅の若き獅子たち」を紹介した「今月の鬼畜レコード特別編」)をタコシェの店員さんに教えられことをきっかけに依頼されたもの。その後も近藤と吉河は、同誌では下記のとおり何度か原稿を書かせていただいている]

2001年

1月17日
近藤、長野県・軽井沢のあさま山荘事件殉職者慰霊碑の前で日清カップヌードルをすする。
[この時のレポートは『ZAMDA』第7号および当HP内「もてる男になるための21ヶ条」に、「永瀬正敏はあさま山荘でカップヌードルを食べるか?」と題して掲載(ただし前者は後者を加筆修正した増補版)]

1月31日
吉河と近藤、銀座で公開されていた水野晴郎監督の『シベリア超特急2』を観る。その後吉河は何度か同作品を繰り返し観、さらには水野監督から『ZAMDA』宛てにサイン【下の写真】をいただく。


1月〜3月
近藤、暇さえあればインターネット喫茶に入り浸り、当HP掲示板へ長々と日記のごとく書き込み。その後3月末になってようやくパソコンを自宅に導入する。

3月1日
『中洲通信』4月号「特集・好敵手ライバル物語」に吉河・近藤の出席した「怠け者と行動派の言い分座談会」掲載。

4月27日
ホームページ『電気ZAMDA』管理人を近藤が引き継ぐ。

6月1日
『中洲通信』7月号「特集・コレクションパラダイス!」に吉河の文章「骨董市に集まるコレクターたちの情熱パッション」掲載。

8月12日
『ZAMDA』第6号刊行、東京ビッグサイトでの第60回コミックマーケットで発売。一年ぶりの本誌発行。
[2000年8月以来丸一年続いた空白期間中には、周囲から『ZAMDA』はどうなったのか? などとよく訊かれたものである。といっても別に出す気が失せたとかそういうわけではなく、むしろ出そうという思いは強くあったもののそれに載せる原稿があまりにも膨大になりすぎてなかなか出せなかった……というのが真相だったりする。なお本誌のレイアウトをすべてMicrosoftのWardで組むようになったのはこの号から]

9月1日
『ZAMDA』第7号刊行、同日、第3回肉十八・顎家ちん助(吉河)・余米曾譲嫌(近藤)三人会《完全燃焼!防災訓練》と題する演芸会と併せて開催されたイベント《ZAMDA Night》(於:中野ハルコロホール)にて発売。
[前号の刊行からたった半月で第7号を出す。とはいえ、これはそもそも第6号と並行して準備していた第7号を、コミケで両号同時に発売するつもりが結局間に合わずやむなく半月刊行を延ばしたまでの話である。なお上記の演芸会のタイトルは開催日が防災の日であることから勢い余って命名したものだが、開催当日の未明に歌舞伎町の雑居ビルで火災が発生してしまった。おそろしやおそろしや]

10月24日
吉河と近藤、神宮球場での日本シリーズ 近鉄・ヤクルト第4回戦を取材と称して観戦。
[この時のレポートは『ZAMDA』第8号に掲載]

11月10日
『ZAMDA』増刊「こちら中野区昭三公園前派出版」刊行、第4回肉十八・顎家ちん助二人会《君も出征ができる》会場(於:中野ハルコロホール)で配布。
[『ZAMDA』創刊以前に書かれた吉河や近藤の原稿などを集めて一冊にまとめたのがこの増刊。たしか一週間ほどで編集した覚えがある]

12月30日
『ZAMDA』第8号刊行、東京ビッグサイトでの第61回コミックマーケットで発売。
[大主筆と編集長以外にももっといろんな人に書いてもらったり協力してもらおう、ということで一つの契機となったのがこの号。特集は「浅草お兄さん会」(浅草キッド主催)などに出演し、ごく一部で知られる芸人・ヘブリスギョン岩月氏。いまや雑誌『笑芸人』の表紙やテレビ番組『週刊アサ秘ジャーナル」の政治家の似顔絵などを手がけるイラストレーター・村松正孝氏に同特集扉を依頼するなど、いろんな人にご協力いただいた]

2002年

1月1日
『中洲通信』2月号「特集・copy?」に近藤の文章「リアルは細部にこそ宿るのだ 〜ミニチュアランドの建物制作のひみつ」掲載。

1月26日
『ZAMDA』増刊「いき馬の目を抜く面白さ哉の巻」刊行、第5回ジェームス槙(吉河)・肉骨粉(肉十八の同日限定の芸名)・余米曾譲嫌XP三人会《藤村新一さん、お粥が煮えましたよ 蘇我氏だヨ!全員滅亡》会場(於:中野ハルコロホール)で限定配布。
[この増刊には近藤が小学6年生の時に描いた日本史マンガを、ちょうど蘇我馬子らが登場するということで特別に掲載した]

2月10日
吉河と近藤、肉十八・チベット太郎らとともに千葉県木更津市を訪問。元そごう、蝙蝠安の墓や海ほたるなどのスポットを「取材」。
[この時の模様は『ZAMDA』第9号特別企画「モリモリの小さな旅・千葉県木更津編 われわれは木更津で何を見、何をしたか」で紹介]

8月11日
『ZAMDA』第9号刊行、東京ビッグサイトでの第62回コミックマーケットで発売。本誌初のオフセットでの印刷。
[この号は、2003年4月1日現在まだ大量に在庫が近藤宅にあって弱っていたりする(笑)。まあ特集に登場するのが真木修平氏という誰も知らない人物なんだからしょうがないといえばしょうがないが……。ただ、本誌ホームページを通じて真木氏の全国にちらばる友人の方々がわれもわれもと買い求めてくださったのには驚いた。この場を借りて改めて感謝申し上げます]

11月3日
渋谷・青山ブックセンターにて開催の同人誌即売会・第1回文学フリマに「ZAMDA JAPAN」として参加。『ZAMDA』バックナンバーを販売。
[ただしこの時吉河は早大落研の年に一度のOB会と重なったため欠席。代わりに「サブカル堂」同人の万里小路信房氏に販売を手伝ってもらった]

12月9日
吉河と近藤、赤坂BLITZで開催されたメロン記念日の初ライブ《これが記念日》を観に行く。その後二人はさらにメロン記念日のとりこに……。
[実はそれに先立つ同年9月21日には、二人で横浜アリーナでのモーニング娘。ツアーにも行っていたりする。なお吉河は『ZAMDA』第10号にメロン記念日への愛をつづったコラム「果実熱」を寄稿している]

12月29日
『ZAMDA』第10号刊行、東京ビッグサイトでの第63回コミックマーケットで発売。
[この号は、コミケ2日目(12月29日)の会場に出店した友人サークル「サブカル堂」でまず発売。翌30日に出店した「ZAMDA JAPAN」ではバックナンバーとともに発売した(2日間で計43冊の売り上げ)。内容としては、前号があまりにも内輪的なネタが特集だったから、この号ではもうちょっと一般の人にもわかりやすいものを……ということでバカ映画特集を組む。いまをときめく山田広野監督の登場で売れ行きはまずまず]

2003年

2月6日
本誌発行サークル名を「ZAMDA JAPAN」から「ZAMDA」に改称。

8月17日
『ZAMDA』第11号刊行、東京ビッグサイトでの第64回コミックマーケットで発売。
[この号は、コミケ2日目(8月16日)の会場にて、今号にも登場していただいた酒徳ごうわく氏らが出店したサークル「映像温泉芸社」でまず発売。翌17日に出店した「ZAMDA」のブースではバックナンバーとともに発売した。2日間で計40冊の売り上げを記録。値段が上がったのに前回と売り上げがほとんど変わらなかったことに驚いた]

2004年

7月2日
ZAMDAの活動終了をHPにて発表

8月10日
『ZAMDA』の終刊号となる第12号刊行。

8月15日
第66回コミックマーケット(於:東京ビッグサイト)への参加をもってZAMDAの活動をすべて終了する。

(敬称略)

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